2012/03/18

死は終わりではなく完成形である(べきである)


”死ぬこと”は確かに人生の端点を意味するが、決して”終わり”という意味は強くなく、”完成する”という意味が強いように思う(強くあるべきだと思う。)

人は生きる過程において(程度の差こそあれ)洗練される。
生まれた瞬間では未熟であるが、多くの人に会い、多くの経験を重ねることで熟し、洗練される。
洗練のステップは2段階を経る。
 STEP1: 多くの経験情報を蓄積する
 STEP2: 不要な物を捨て、体系だった本質を確立する

洗練の過程は、それを意識しない人からは単なる無駄の蓄積や、本質を無視した衰退と勘違いされやすい。
洗練はその過程において無駄の蓄積が必要であることは確かである(洗練されるまでそれが無駄かどうか判断できないのが難しいところだが。)
また蓄積後の収束は衰退と勘違いされやすい(本当に本質を失う”衰退”をする人もいるが。。。)

真の完成を見るためには、何はともあれSTEP1が肝要に思う。
経験の蓄積無しに収束はありえない。
死を完成の表れとするためには、まずは経験蓄積が需要。その上で収束をかける。その結果洗練される(はず。)

そういった視点では、
過去の自信の発言や思想が恥ずかしく思うことがあっても、
それは洗練されてない情報として素直に受け止めるべきなのかもしれない。
(時を経てそれを実感することで洗練されるのだろう。)

本質的には、「人は自分が生きた証を残すために人生を消費する」ということ。
多くはDNAを残す(GENE, 子を産む)ことでそれを実現するが、
摸倣子(MEME)を残すことで実現しようとする人間は、
周りに流される形で人生を歩むだけでは駄目で、異なる視点と行動が必要なのだと思う。

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