個人がそれを識別するためのものは、個人それ自身がのみ持つ記憶だと思っていたが、コンピュータ(正確にはストレージか?しかし記憶の操作を含めて記憶と称するのが妥当に思うのでコンピュータと表現するのが良いように思う)が記憶の外部化を可能にし、記憶が複製可能なものになった際、成り立たないのではと疑問に思った。
現在(特定時点)の記憶の形(デジタルスナップショット)を再現しても、これまでの記憶が作られる過程により発生した歪のようなもの(ちょうどHDDにおいてディスクへの書き込みが物理的には0/1に2極化されず、ある程度の磁気的な曖昧さを生むように)が重要なファクターになるのでは無いか?
所謂ゴーストが宿るのは”その歪に”では無いか?
例えばDVDのコピー(デジタルtoデジタル)はそのままのコピーであるが、ビデオのデジタル化は歪が無視され、観測的にはコピーでも、実際はオリジナルとは異なるものになるのと似ている。
生体的電気信号が離散的情報に変換されることで、欠落する成分があるのではないか?
(個人が個人たりうる所以は、人間から生まれた人間においてしか存在できず、コピー不可能なものであると考える。)
あるいは、もし記憶の書き換え痕跡も含めてデジタル化可能ならば、それこそデジタルネットとの融合と個の保持を同居できるのだろうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿